おくのほそ道と須賀川
「おくのほそ道」は、江戸中期の俳諧紀行です。おくのほそ道の旅はおよそ7か月余、約2400キロに及ぶ旅でした。季節は、晩春から晩秋と移り変わり、武蔵・下野・陸奥・出羽・越後・越中・加賀・越前・近江・美濃の10国に及びました。元禄2年(1689)旧暦3月27日に江戸深川を出立した松尾芭蕉は、いっさいの名利を捨て、弟子の河合曽良とともに奥羽へと旅立ちました。
芭蕉にとって「おくのほそ道」の旅は、能因・西行・宗祇などに歌われた歌枕や名所を訪ね歩き、古人と心を重ね合わせ、俳諧を和歌や連歌と同等の格調高い文芸に位置づけたいという思いを強く持った旅でした。また、東北・北陸地方の土地の俳人たちとの出逢いにも大きな期待を寄せ、実際に各地の人々と交流し、その中から数多くの名句が生まれました。
江戸を発ってから約1か月後、旧暦4月21日に憧れの地・白河の関を越え、山が連なる広大な景色の中、須賀川へと歩を進めます。
須賀川8日間
新緑が眩しく生い茂る田園風景を過ぎ去り、須賀川に着いた芭蕉は、豪商相楽等躬を訪ねます。早速、奥羽で最初の俳諧興行が行われ、気脈を通わせ合う等躬と句作の時間を共にし、8日間滞在します。素朴な田植歌でもてなした須賀川に、〈風流〉を感じた芭蕉は「風流の初やおくの田植うた」句を認めます。この句には、この土地の人へ挨拶と同時に旅への決意を感じます。芭蕉は土地の俳人との俳諧を楽しみ、近隣の神社仏閣を案内されるなど温かいもてなしを受けて、旅のつかれをいやしました。
芭蕉ゆかりの主な句碑
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風流のはじめや奥乃田うゑ唄
建立場所 十念寺(池上町 101)
建立者 晴霞庵多代女
建立年 安政2年(1855)
多代女が80歳の賀を記念して崇敬する芭蕉の句を建立しました。
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世の人乃みつけぬ花や軒の栗
建立場所 可伸庵跡
建立者 石井雨考 竹馬 英之 阿堂
建立年 文政8年(1825)
芭蕉翁百年忌を修した雨考らが、八幡社に建立
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五月雨の滝降りうづむ水かさ哉
建立場所 乙字ケ滝 瀧見不動堂前
建立者 東都如意庵一阿
建立年 文化10年(1813)
江戸の俳人一阿が雨考や竜崎の俳人らに建碑の世話を依頼して建立されました。
須賀川ゆかりの俳人
―須賀川俳諧の祖―
相楽 等躬(さがら とうきゅう)
俳人
須賀川生まれ
寛永15年(1638) ~ 正徳5年(1715)
通称、伊(猪)左衛門。初号を乍憚または乍憚斎、晩年は藤躬と号しました。豪商であり、須賀川俳壇の中心的人物です。
相楽家は中世白河の領主・結城家の流れをくむ家であり、「相楽家系図」(相楽家文書)によると相楽家の初代は、中畠晴時の子・貞次で、晴時が領地を失った際、幼少だった亀千代(貞次の幼名)は須賀川に移り住み、のちに貞次は、相楽を姓にするようになったといわれています。
また、「相楽家系図」では、等躬は貞次の五男・貞栄の子とされており、貞栄の項には「分家」と記されていることから、等躬は分家筋にあたると考えられています。
俳諧との関わりについては、貞門派の石田未得門であり、のち岸本調和に親しみ、晩年は磐城平藩の内藤露沾と俳交しました。二十代後半にはすでに投句活動を行っていることが知られており、奥州貞門俳諧の中心的な役割を果たしていた磐城平藩第四代藩主内藤義概(俳号 風虎)の知遇を受け、江戸俳諧との結びつきを深めていきました。
芭蕉との関係は、芭蕉が宗匠立机した際に行った万句興行に句を寄せていることから、芭蕉とは旧知の仲であり、芭蕉が「おくのほそ道」の旅の途次に須賀川へ立ち寄ったのは、等躬を訪ねるためだったといえます。
東北の名所和歌集『蝦夷文談抄』(宝永2年(1705)刊)を著すなど、陸奥の歌枕に通じ、各地の俳人の情報にも精通した好事家で、遊歴の文人墨客をもてなしました。
編著『荵摺』『伊達衣』『一の木戸』『蝦夷文談抄』
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あの辺はつく羽山哉炭けぶり
建立場所 長松院
建立者 本町1丁目有志者
建立年 昭和33年(1958)
刻字は〈あの辺は津久羽山哉炭けふり〉
等躬の自筆の短冊を拡大して刻んでいます。
―等躬を継いだ人々―
藤井 晋流(ふじい しんりゅう)
俳人
群馬県(上州)小泉村生まれ
延宝8年(1680)~宝暦11年(1761)
名は佐善。通称、太中、源右衛門、俳号を晋流、しゅ月洞、百柳軒といいました。須賀川の富豪藤井総右衛門の長女の婿となった晋流は、分家として居を構え商いに励んでいましたが、36歳のとき、妻、久須(俳号霜楠)に先立たれてからは、俳諧の道に没頭し、各地の俳人と交流し『しゅ月集』、『蕉門録』などを編集しましたが、出版には至らず写本のみ残されています。生涯を通じて、芭蕉を尊敬し、各回忌には句会を開き、等躬の後継者として蕉風俳諧の継承に努めました。
寛保元年(1741)、北町密蔵院観音堂境内(現上北町)に芭蕉と師匠の宝井其角の名を碑に刻み、芭蕉の「時雨忌」にあたる10月12日に時雨塚を建立しました。
また、等躬から譲与された芭蕉真筆16点、曽良、等躬の軸各1点を、明和年間に江戸に住んでいた時に火災にあい焼失したと言われています。宝暦11年(1761)、江戸浅草の屋敷で82歳の生涯を終えました。
石井 雨考(いしい うこう)
俳人
須賀川生まれ
寛延2年(1749)~文政10年(1827)
通称は久右衛門、号を夜話亭。酒造業。小さいころから、二階堂桃祖に師事し、俳諧を学びます。神炊館神社の近くに「夜話亭」という庵を構えており、俳人との交友の場としました。隣には絵師の亜欧堂田善が住んでおり、特に親しい間柄でした。また、市原多代女を俳諧の道へ誘い指導しています。文政8年(1825)、ゆかりの地の八幡社境内(現市役所敷地)に竹馬、英之、阿堂と共に碑(「世の人のみつけぬ花や軒の栗」)を建立しました。(現在は可伸庵跡に移設)文化10年(1813)に建立された乙字ケ滝の不動堂前の碑(「五月雨の滝降りうづむ水かさ哉」)も雨考の尽力といわれます。
文化11年(1814)刊行の、雨考の句集『青蔭集』の序文は、多代女が記しています。また、田善が大隈滝(乙字ヶ滝)を描いた銅版画が挿絵として収められるほか、河合曽良が「おくのほそ道」旅行中の出来事を記録した『曽良随行日記』の一部を収録しており、昭和18年(1943)に『曽良随行日記』が再発見・出版されるまで大変貴重な資料でした。小林一茶、松窓乙二らの句も寄せられています。
市原 多代女(いちはら たよじょ)
俳人
須賀川生まれ
安永5年(1776)~慶応元年(1865)
号は晴霞庵。酒造業で白河藩の御用商人であった市原家に生まれます。分家に養女として入り、会津若松から松崎常蔵(後に有綱に改名)を婿として迎えて家業のちりめん問屋を営み、二男一女をもうけました。
文化3年(1806)、彼女が30歳のとき夫が亡くなり、心労のため神経衰弱になったのを心配した長兄の綱稠から俳諧の道に入ることをすすめられ、石井雨考と江戸の俳人鈴木道彦に師事しました。 90歳で亡くなるまでに四千句以上の俳句や60句余りの連歌を残しました。『浅香市集』はその代表作の一つであり、当時俳壇に名をなしていた俳人260余人の句を集成し、特に相楽等躬の俳句30句などを収めて等躬を顕彰していることが注目されています。文政6年(1823)、48歳の時には長年の夢であった江戸行きを実現して約3カ月滞在し、多くの俳人・学者と交流を深めました。その旅の心境を書いたのが『菅笠日記』です。また、安政2年(1855)、80歳のときには、芭蕉の句碑を建立するなど須賀川の俳句の発展に一生を捧げました。研究資料として矢部榾郎編『たよ女全集』があります。
―新風を追い求めた人々―
道山 壮山(みちやま そうざん)
俳人
須賀川生まれ
天保4年(1833)~明治33年(1900)
明治の須賀川俳諧の宗匠
本名は、三次郎、号を芳秋、栗の本などと号しました。明治初期の東北を代表する宗匠です。家業の商業に従事するかたわら、種々の名誉職を務め町の有力者でした。
可伸庵と名付けた自邸には、東北を旅する俳人は皆立ち寄ったといいます。明治26年(1893)には、無名であった正岡子規も壮山のもとを訪れ、「此地の名望家なり」と著書『はて知らずの記』に記しています。栗の本という号は、壮山が俳句に熱心なため、明治29年(1896)に京都二条家の御門家衆に加えられた時、同家より与えられた称号です。編著『柱石集』『早苗のみけ』『亀齢集』『雪みくら』
柳沼 破籠子(やぎぬま はろうし)
明治8年(1875)~昭和14年(1939)
本名、源太郎。須賀川町中町生まれ。須賀川牡丹園園主。
父祖伝来の牡丹栽培に専念する一方、俳人としても優れた才能を発揮し、数々の牡丹の名句を残しています。
園主より身は芽牡丹の奴かな
牡丹接ぐ男に月日慌し
牡丹榾鱗の如く燃えにけり
道山 草太郎(みちやま そうたろう)
明治30年(1897)~昭和47年(1972)
本名、茂兵衛。須賀川生まれ。祖父の壮山の俳系をつぎ、詩人的資質と求道精神とが一体となった独自の俳境を拓き、須賀川俳壇の興隆に尽力しました。
年くるるやふるさと寒き山ばかり
どの道をゆきても雪のさびしさよ
星空の紺うつろなる深雪かな
矢部 榾郎(やべ ほたろう)
明治15年(1882)~昭和39年(1964)
本名、保太郎。長沼村生まれ。小学校の教師を務めるかたわら、須賀川俳壇後進の育成に尽くし、また俳諧の研究者として知られ、学術的な交友も広く全国に及びました。福島県文化功労賞受賞。
著書『福島縣俳人事典』『続福島縣俳人事典』『たよ女全集』
梅雨晴や久遠の銀河まのあたり
大牡丹夕べの花弁たゝみ来し
しづかなる水にうつれり春の星
左から柳沼破籠子、矢部榾郎、道山草太郎
桔槹吟社(きっこうぎんしゃ)
俳誌「桔槹」は、大正11年(1922)に矢部榾郎(保太郎)、柳沼破籠子(源太郎)、道山草太郎(茂兵衛)、永山香螺(任太郎)、岡部句童(宗城)、竹内翠玉(憲治)、草野虬泉、住吉心亘、中村清覚らが創刊した同人誌です。月刊。師系は原石鼎。地域に根をおろした俳誌を目指しています。平成29年( 2017)9月号で通巻1100号を数えました。
桔槹吟社ホームページ
https://www.kikkou-sukagawa-haiku.org/
―須賀川の風物詩―
牡丹焚火
牡丹焚火は、毎年11月第3土曜日の薄暮から宵にかけて国指定名勝「須賀川の牡丹園」で行われます。天寿を全うした古木や途中で折れた牡丹の木を供養する行事です。
夕闇の中にかすかな香りを漂わせながら燃え上がる青紫色の焔は、牡丹の精を思わせ、余情的な雰囲気を醸し出します。
平成13年には環境省の「かおり風景100選」の一つに選定されました。
また、昭和53年には、俳句歳時記の冬の季語として採択され、須賀川の風物詩として定着しました。
煙なき牡丹供養の焔かな 原 石鼎
北斗祭るかむなき心牡丹焚く 柳沼破籠子
手を帯に牡丹焚き火に立たれしが 矢部 榾郎
骨の如きぼたんかれ枝たきにけり 道山草太郎
須賀川牡丹園ホームページ
https://www.botan.or.jp
松明あかし
松明あかしは、毎年11月第2土曜日に、翠ケ丘公園五老山で行われる鎮魂の行事です。戦国時代、伊達政宗に攻め込まれた須賀川城主である二階堂家の家臣と領民が、城を守るため松明を手に丘に集まったのが起源です。
高さ10メートルに及ぶ大松明約30本に次々点火されると、山は火の海となり、初冬の夜空を焦がします。
平成30年に、俳句結社「桔槹吟社」の長年の運動が実を結び、角川書店の「俳句歳時記第5版冬」に冬の季語として採択されました。
小松明ぽつぽつと丘上りゆく 道山草太郎
路地の闇大松明を担ぎ出す 髙久田橙子
火の柱の火の壁の松明あかし 金子 兜太
須賀川に火祭り二つ冬が来る 森川 光郎
松明あかし果て真つ白な月残る 永瀬 十悟